弘法大師空海
弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)を簡単に
- 弘法大師空海とは、日本に「密教」をもたらした偉大なお坊さん。
- 密教修行のための道場として、金剛峯寺を開く。
- 土木工事・教育・文学などの分野でも活躍し、多くの伝説を残す。
1.弘法大師空海とは
弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)とは、日本に「密教」をもたらした偉大なお坊さん。
お大師さまとして親しまれています。
(1)生い立ち~中国留学
774年(奈良時代の終わりごろ)に香川県善通寺市で生まれた空海は、幼いころからとても賢く、学校での成績はいつもトップ。
18歳で都の難関大学に入り、将来はエリートの道が約束されていました。
ところが、大学での勉強に満足できず、エリートの道を捨てて出家します。
山奥や洞窟などで厳しい修行に励みながら、仏教にのめりこむようになりました。
そして、31歳のときに中国へ留学し、密教のエキスパートである恵果和尚のもとで学びます。
密教とは
仏教とヒンズー教が融合して生まれた、不思議な宗教。
「真言」とよばれる呪文や、「護摩」とよばれる火をたく儀式などが特徴。
大日如来と一体になることによって、人は生きたまま仏になれると説いている(即身成仏)。
空海はわずか3か月という猛スピードで密教をマスターし、たくさんの密教のお経や道具などを日本へ持ち帰りました。
(2)密教の布教
帰国後の空海は、加持祈祷(護摩をたいて祈りをささげる密教の儀式)によって争いや干ばつなどをしずめ、天皇や政府から認められるようになります。
そして、密教修行のための道場として、和歌山県の高野山に金剛峯寺を開きます。
その後、天皇から京都の東寺をまかされた空海は、東寺のお堂の中に「立体曼荼羅」とよばれる巨大な3Dジオラマ(世界初)をつくり、人びとを驚かせました。
立体曼荼羅とは
密教の世界を絵図で表した平面曼荼羅をさらに発展させて3D化したもの。
21体もの巨大な仏像が、約30メートルにわたってずらりと並ぶ。
(中央に五智如来、向かって右に五大菩薩、向かって左に五大明王、周囲に梵天・帝釈天および四天王)
このような空海の活躍によって、(日本ではあまり知られていなかった)密教という教えが一気に広まります。
仏像せんせい
これまでの仏教には無かった
- 真言(秘密の呪文)
- 護摩焚き(神秘的な儀式)
- 曼荼羅(謎めいた絵)
などの密教の派手なパフォーマンスは、人びとを大きく魅了しました。
空海の広めた密教は、真言宗(しんごんしゅう)という一つの宗派として、国に正式に認められるようになります。
空海は、日本の仏教界に新しい風を吹きこんだのです。
(3)そのほかの功績
空海の功績は、密教だけではありません。
医学・土木技術・文学・美術・占星術などの最新技術を中国から持ち帰り、日本の文化の発展に大きく貢献しました。
とくに土木技術においては、それまで何年かけても完成しなかった満濃池(香川県にある日本一大きなため池)の改修工事を、わずか3か月で成しとげます。
この工事によって、人びとは水不足で困らなくなり、洪水による被害も無くなりました。
仏像せんせい
空海が満濃池に施した「アーチ型堤防」は現在も使われており、満濃池は今も変わらず人びとの生活を支えています。
また、庶民のための学校を日本で初めて開いたのも空海です。
当時の日本では身分の高い人しか学校に入れませんでしたが、空海は授業料を0円とした理想的な学校(綜芸種智院)を設立し、誰もが安心して学べるようにしました。
835年(平安時代の初めごろ)、高野山の金剛峯寺にて空海は静かに亡くなります(62歳)。
空海の死後、天皇は空海に弘法大師(こうぼうだいし)という立派な呼び名を贈り、空海は今もなお「知の巨人」として人びとから尊敬されています。
2.空海の伝説
知の巨人のほかにも「仏教界のスーパースター」「万能の天才」などの異名をもつ、超人・空海。
空海にまつわる伝説は、日本各地に5千以上もあるといわれています。
その中でも有名な4つのストーリーを紹介します。
+ 身投げ伝説(タップで開く)
空海は7歳のとき、険しい山に登ってこう祈りました。
「私は大人になったら、多くの人びとを救いたい。
この願いがかなうなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。
もしかなわぬのなら、いのちを捨ててこの身をささげよう」
空海が崖から身を投げたところ、釈迦如来と飛天が舞いおり、空海を抱きとめたそうです。
いのちを救われた空海は感激し、この山にお寺を開いて釈迦如来をまつりました。
四国八十八ヶ所霊場の一つである出釈迦寺(香川)がこのお寺であり、ここから50分ほど登ると、空海が身を投げた「捨身ヶ嶽」があります。
+ 室戸岬での神秘体験
若き日の空海は、高知県の室戸岬の洞窟にて「虚空蔵求聞持法」という修行に取り組みました。
虚空蔵求聞持法とは、「ノウボ・アキャシャ・キャラバヤ・オン・アリキャ・マリボリ・ソワカ」という虚空蔵菩薩の真言(密教の呪文)を、厳しいルールに従って100万回も唱えるという過酷なもの。
宇宙レベルの超人的な記憶力を得られるメソッドとして知られていますが、その過酷さゆえに達成することが難しく、発狂する人も続出。
死と隣り合わせの、大変厳しい修行なのです。
空海がこの修行に取り組んでいると、空に輝く金星が光のかたまりとなって、空海の口に飛び込んできたといいます。
金星は虚空蔵菩薩の生まれ変わりとされていることから、空海は「虚空蔵菩薩と合体する」という神秘的な体験をしたのです。
その後、空海は虚空蔵求聞持法を成しとげます。
空海が修行した洞窟(御厨人窟)は今も残っており、パワースポットとして人気を集めています。
+ 「三鈷の松」の伝説
空海が密教の本拠地に高野山を選んだ理由として、次のような言い伝えがあります。
中国での留学を終えた空海は、密教を広めるのにふさわしい場所を求めて、帰国の船が出発する港から空に向かって三鈷杵を投げます。
三鈷杵はまぶしい光を放ちながら、雲の中へと消えていきました。
日本へ帰国後、その三鈷杵を探しまわったところ、高野山の松の枝に引っかかっているのを発見。
空海の投げた三鈷杵は、海を越えて1万4000キロメートルほども飛行したのです。
こうして高野山は密教修行のための道場として開かれ、この松の木は「三鈷の松」とよばれるようになりました。
三鈷の松は今もなお金剛峯寺の御影堂の前で美しい葉を広げ、そのパワーを授かりに多くの参拝者がやってきます。
+ 大日如来に変身した空海
813年(平安時代の初めごろ)、嵯峨天皇はさまざまな宗派のお坊さん(空海を含む)を宮殿に招き、仏教についての討論会を開きました。
当時の仏教においては「長い間ずっと修行しないと仏になれない」と考えられていましたが、空海は「人は誰でも今すぐに仏になれる」という密教のコンセプトを説き、会場をざわつかせます。
誰一人として空海の話を信じなかったため、空海は手に智拳印を結び、真言(密教の呪文)を唱えました。
すると、空海の体は黄金に輝き始め、なんと大日如来の姿に変身したのです。
その場にいた貴族やお坊さんたちは、びっくり仰天。
天皇さえも空海の姿にひれ伏し、手を合わせて拝んだといいます。
3.姿かたち
弘法大師坐像
空海の死後、その偉大な功績をたたえて、多くの弘法大師像がつくられました。
袈裟を身にまとい、顔を斜め前に向け、結跏趺坐をして座ります。
(顔が正面に向いている像もある)
右手をひねるようにして五鈷杵を持ち、左手に数珠を持ちます。
弘法大師像には、次のような姿をしたものもあります。
- 稚児大師像
・・・蓮華座に乗って合掌する、幼いころの姿 - 修行大師像
・・・錫杖を持って日本各地をめぐり歩く姿
4.有名な像とお寺
- 弘法大師坐像/青蓮寺[鎖大師](神奈川)
- 板彫弘法大師像/神護寺(京都)
- 弘法大師坐像/東寺・御影堂(京都)
- 弘法大師坐像/高野山霊宝館(和歌山)
- 稚児大師立像/善通寺・御影堂(香川)