鑑真和上(がんじんわじょう)を簡単に
- 鑑真和上とは、日本に「戒律」を伝えた中国出身のお坊さん。
- 何度も航海に失敗しながら、いのちがけで日本へたどり着く。
- 唐招提寺を建て、すぐれたお坊さんたちを世に送り出した。
1.鑑真和上とは
鑑真和上(がんじんわじょう)とは、日本に「戒律」を伝えた中国出身のお坊さん。
(鑑真がお坊さんとしての名前で、和上は尊敬を込めた呼び名)
(1)生い立ち~来日の決意
688年(飛鳥時代の終わりごろ)に中国東部の揚州で生まれた鑑真は、14歳で出家します。
大都市・西安にて仏教や医学などを学んだのち、21歳で正式なお坊さんとなり、4万人ほどもの弟子たちに「戒律」を教え授けました。
戒律とは
仏教の修行者が守るべきモラルと生活ルール。
正式なお坊さんになるためには、師匠のもとで授戒(戒律を守ることを誓う儀式)を受ける必要がある。
当時の中国では、鑑真は戒律のスペシャリストであり、やがてその名が広く知られるようになります。
一方、そのころの日本では、戒律のエキスパートがほとんどいなかったため、正式なお坊さんを十分に育てることができませんでした。
そこで、聖武天皇の命令によって、授戒のできる師匠を探しに2人のお坊さん(栄叡と普照)が中国へ渡ります。
栄叡・普照らは10年間も旅を続け、ようやく鑑真に出会いました。
2人の熱心な頼みによって、鑑真(55歳)は日本へ渡ることを決意します。
(2)日本への道のりと功績
ところが、日本への道のりはとても険しいものでした。
船の事故や妨害行為などによって5度も来日に失敗し、航海の途中で鑑真は目が見えなくなってしまいます。
それでも鑑真は諦めず、753年(奈良時代の中ごろ)、6度目の挑戦でようやく日本へたどり着きました。
奈良の都に着いた鑑真は、東大寺に戒壇院(授戒を行うためのお堂)を築き、さらに唐招提寺を建てました。
戒壇院と唐招提寺は戒律の中心地となり、グローバルに活躍する多くのお坊さんが巣立っていきました。
鑑真は(仏教だけでなく)当時の最新の医学・建築技術・美術なども伝え、日本文化の発展に大きく貢献します。
そして、763年(奈良時代の終わりごろ)、唐招提寺の宿舎にて静かに亡くなりました(75歳)。
どんな苦難にも負けず、いのちがけで「正しい仏教」を伝えた鑑真和上。
そのスピリットは人びとの心に深く残り、鑑真和上が眠るお墓(唐招提寺の開山御廟)には、今でも多くの人がお参りに訪れています。
2.姿かたち
鑑真が亡くなる直前、弟子の忍基が鑑真のありのままの姿を仏師につくらせたのが、鑑真和上像。
この鑑真和上像は唐招提寺にまつられ、さらに唐招提寺の像に似せてつくったものが、いくつかのお寺に置かれています。
鑑真和上像の特徴
袈裟を身にまとい、(結跏趺坐の状態で)禅定印を結んだ坐禅のポーズをしています。
まつげ・ひげ・耳の毛などが細かく描かれ、左肩が少し前に突き出ている部分までもがリアルに再現されています。
これほどリアルな像をつくったのには、
- 「鑑真の教えを後世に伝えたい」という弟子たちの強い思いがあった。
- 当時の中国には、偉大なお坊さんの遺体をミイラ化して残す風習があった。
などの説があります。
3.有名な像とお寺
- 鑑真和上坐像/壬生寺(京都)
- 鑑真和上坐像/唐招提寺(奈良)
- 鑑真和上坐像/東大寺(奈良)
- 鑑真和上坐像/戒壇院(福岡)