空也上人(くうやしょうにん)を簡単に
- 空也上人とは、念仏を唱えて各地を巡り歩いたお坊さん。
- 井戸を掘ったり遺体を葬ったりして、庶民に尽くした。
- 口から6体の阿弥陀仏が放たれた、ユニークな像がまつられる。
1.空也上人とは
空也上人(くうやしょうにん)とは、念仏を唱えて各地を巡り歩いたお坊さん。
(空也がお坊さんとしての名前で、上人は尊敬を込めた呼び名)
(1)生い立ち~巡業の旅
903年(平安時代の中ごろ)、京の都にて第60代・醍醐天皇の子として生まれます。
空也は皇子でありながら両親から愛されず、仏の救いを求めて16歳で都を飛び出し、愛知県の願興寺で正式なお坊さんとなります。
やがて願興寺を去った空也は、その後も1つのお寺におさまることはなく、東北や関東などを巡り歩きながら人びとのために働きます。
その活動は、水不足に苦しむ土地で井戸を掘り、野ざらしの遺体を見つけては手厚く葬るというものでした。
(2)京都での念仏行
36歳になった空也は、20年ぶりに京の都に戻ります。
「南無阿弥陀仏」と唱えながら町を歩いて回り、物乞いをしては貧しい人に分け与え、病に苦しむ人がいればつきっきりで看病しました。
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とは
「阿弥陀さま、あなたにおすがりします」という意味の念仏。
心から仏の名を唱えることによって、どんな者にでも救いの手をさし伸べてくれると、空也は人びとに説いている。
空也は、巡業の際にいつも携えていた仏像の金箔をすべてはがして、貧しい親子に与えたこともあるそうです。
庶民のために力を尽くす空也は、いつしか「市聖(いちのひじり)」「阿弥陀聖(あみだひじり)」とよばれ、人びとから慕われるようになります。
950年には、当時の日本を襲った飢餓や疫病などをしずめるために、巨大な仏像群(十一面観音像および梵天・帝釈天・四天王像)を制作。
その後、さらなる国の平和を願って、600巻にもおよぶ「大般若経」というお経を書き写す大プロジェクトを(13年間を費やして)成しとげています。
(3)空也の教え
972年、京都の自宅道場にて、空也は念仏を唱えながら静かに亡くなります(70歳)。
いかなる教団やお寺にも属さず、つねに民衆の中にあった空也は
人びとを本当に救い導くのは、難解な教えではなく、仏をひたすら信じて人に尽くすことである。
という「菩薩の心」を、私たちに伝えています。
空也上人のスピリットは人びとの心に深く刻まれ、京都・東山のかつての道場(現在の六波羅蜜寺)には、今でも多くの人がお参りに訪れています。
2.姿かたち
空也の死後、その偉大な功績をたたえて、空也上人像がつくられました。
空也上人像の特徴
袈裟を身にまとい、首から金鼓(銅製の平らな楽器)をぶらさげて立っています。
右手に撞木(金鼓を打ち鳴らす棒)、左手につえを持ち、草履をはきます。
空也上人が「南無阿弥陀仏」を唱えると、その一音一音(南・無・阿・弥・陀・仏)が阿弥陀如来となって現れたといいます。
3.有名な像とお寺
- 空也上人立像/遊行寺(神奈川)
- 空也上人立像/荘厳寺(滋賀)
※琵琶湖文化館に寄託(2024年7月現在) - 空也上人立像/月輪寺(京都府京都市右京区)
- 空也上人立像/六波羅蜜寺(京都)
- 空也上人立像/浄土寺(愛媛県松山市)