聖徳太子(しょうとくたいし)を簡単に
- 聖徳太子とは、日本に仏教を広めた偉大な政治家。
- 「十七条憲法」を定め、平和な国づくりを進めた。
- 日本の文化の発展にも貢献し、多くの伝説を残す。
1.聖徳太子とは
聖徳太子(しょうとくたいし)とは、日本に仏教を広めた偉大な政治家。
正式な名前を、厩戸皇子(うまやどのおうじ)といいます。
(1)生い立ち~出世
お釈迦さまが開いた仏教が日本に伝わって間もない、574年(古墳時代の終わりごろ)。
奈良県の明日香村にて、用明天皇の2番目の息子として生まれました。
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幼いころからとても賢かった聖徳太子は、10代で「仏教賛成派」と「仏教反対派」の争いに参戦し、賛成派である蘇我氏を勝利へと導きます。
この勝利がきっかけで仏教は国に認められ、聖徳太子は22歳で摂政(天皇に代わって政治を行う役職)につきます。
(2)仏教による国づくり
当時の日本では、豪族(土地や財産をもつ権力者)たちの争いが続き、この国は大きく混乱していました。
そこで、政治家として優秀だった聖徳太子は、604年(飛鳥時代の初めごろ)に「十七条憲法」を定め、仏教による平和な国づくりを進めていったのです。
十七条憲法とは
- 第一条
「和をもって貴しとなし、(中略)上和らぎ下睦びて事を論うに諧うときは、事理おのずから通ず。何事か成らざらん」
(協力し合うことが何よりも大事であり、身分の上下にかかわらず友好的に話し合えば、どんなことも成しとげられる) - 第二条
「篤く三宝を敬え。三宝は仏法僧なり(後略)」
(3つの宝物〔釈迦、釈迦の教え、その教えを伝えるお坊さん〕を心から敬いなさい) - etc…
というふうに、「協調性」と「仏教」を中心とした国づくりのコンセプトが定められている。
聖徳太子は四天王寺や法隆寺などの巨大なお寺もつくり、これをきっかけに日本各地に多くのお寺が建てられるようになります。
また、小野妹子(朝廷の役人)を遣隋使として派遣し、中国の進んだ技術や哲学などを取り入れ、日本の文化の発展に大きく貢献しました。
そのほかの主な功績
- 「冠位十二階」の制定
・・・家柄によらず、能力に応じて朝廷の役人の位を決める「冠位十二階」を制定。優秀な人材を雇えるとともに、冠の色(12種類)によって階級が一目でわかるようになった。 - 『三経義疏』の執筆
・・・代表的な3つのお経(『法華経』『維摩経』『勝鬘経』)の意味を解説した『三経義疏』という書物を、自ら執筆。そのクオリティーは、当時の最先端の仏教書と同レベルであった。
(3)太子信仰
622年(飛鳥時代の初めごろ)、法隆寺の宮殿にて聖徳太子は謎の死をとげます(49歳)。
聖徳太子の死後は太子信仰(たいししんこう)が広まり、太子は“聖者”としてあがめられるようになります。
日本に仏教を大きく広めたことから、「日本の釈迦」「日本仏教の祖」などとよばれ、全国各地のお寺に聖徳太子をかたどった仏像がまつられました。
亡くなってから1400年たった今でも、聖徳太子の人気は根強く、日本のいしずえを築き上げたカリスマとして多くの人びとから愛されています。
2.聖徳太子の伝説
日本に仏教を広め、「和の精神」によって国を築き上げた偉人・聖徳太子。
聖徳太子にまつわる伝説は数多くありますが、その中でも有名な6つのストーリーを紹介します。
不思議な夢
聖徳太子の母は、ある日の夢の中で金色に輝くお坊さんに出会い、これがきっかけで太子を身ごもったといいます。
幼いころの太子
聖徳太子は生まれた直後から話し始め、2歳のころには東に向かって「南無仏」(仏教をよりどころにして生きていきます)と唱えたそうです。
四天王の奇跡
「丁未の乱」(仏教賛成派と反対派の争い)が起こったときのできごと。
14歳の聖徳太子が四天王に「どうか勝たせたまえ」と祈ったところ、敵(物部軍)の大将に矢が命中し、蘇我軍を勝利へと導いたといいます。
父の看病
聖徳太子が16歳のころ、父・用明天皇が病に倒れます。
太子は昼も夜もずっと看病にあたり、袈裟を身につけて回復を祈っていたそうです。
富士山の登頂
27歳の聖徳太子は、馬に乗って奈良の都を飛び立ち、空を駆けめぐって富士山におり立ったといいます。
8人の話の伝説
聖徳太子が人びとの願いを聞く場を設けたときのこと。
その場に集まった8人が一斉に話し始めますが、太子は全員の話を同時に理解し、それぞれに的確なアドバイスを送ったそうです。
聖徳太子の人生は深い謎に包まれており、
- 聖徳太子は、そもそも存在しなかった。
- 聖徳太子は実在したが、そのヒーロー像は後からつけ加えられた。
などの説もあります。
3.姿かたち
聖徳太子像には、
- 2歳像(南無仏太子像)
- 16歳像(孝養太子像)
- 22歳像(摂政太子像)
- 35歳像(講讃太子像)
という代表的な4つのタイプがあります。
(1)2歳像(南無仏太子像)
2歳の聖徳太子が東に向かって「南無仏」(仏教をよりどころにして生きていきます)と唱えたという伝説の姿。
頭をそり、上半身は裸ではかまをはいています。
キリッと引き締まった顔つきをし、合掌しながら足をそろえて立ちます。
(2)16歳像(孝養太子像)
病に倒れた父・用明天皇の回復を祈る姿。
(孝養とは、親を敬い大切にするという意味)
両耳のあたりで髪を束ね、袍(貴族や役人が着るフォーマルな服)の上から袈裟をまといます。
両手で柄香炉(取っ手のついた香炉)を持ち、その香りを父にささげています。
立っている像(正立像)と、足を崩して座っている像(遊戯坐)があります。
(3)22歳像(摂政太子像)
22歳で摂政になったときの姿。
袍を身にまとって、布でできた冠をかぶり、両手で笏(細長い木の板)を持ちます。
(4)35歳像(講讃太子像)
推古天皇の前で『勝鬘経』というお経について解説している姿。
袍の上から袈裟をまとい、装飾品のついた冠をかぶっています。
笏または払子を手に持ち、両足を組んで座ります。
4.有名な像とお寺
- 聖徳太子半跏像【16歳】/広隆寺・霊宝殿(京都)
- 聖徳太子坐像【49歳】/四天王寺(大阪)
- 聖徳太子立像【16歳】/飛鳥寺(奈良)
- 聖徳太子立像【2歳・16歳】/元興寺(奈良)
- 聖徳太子坐像【35歳】/法隆寺・聖霊院(奈良)