仏像や大仏をつくった「仏師」とよばれる人たちについて、やさしく解説します。
有名な仏師と代表作も紹介。
1.仏像や大仏は誰がつくったのか
仏像が日本でつくられるようになったのは、仏教が伝わってしばらくしてからのこと。
仏教伝来とともに中国や朝鮮半島から移住してきた「仏像づくりの職人グループ」が、日本における仏師の始まりであるといわれています。
奈良時代(710~794年)になると、国営の仏像制作所ができ、仏像が盛んにつくられるようになります。
平安時代(794~1185年)には自前の工房をもつ仏師が現れ、弟子たちは師匠のもとで技術を学びます。
時代ごとにいろんな仏師が活躍し、人びとのニーズに応じて、さまざまな仏像が世に送り出されました。
「奈良の大仏」や「鎌倉大仏」などの巨大な仏像づくりには、多くの人手や資金が必要であったため、仏師の力だけでは成しとげられませんでした。
そこで、国民が土木作業を行ったり資金を寄付したりして、大仏づくりに参加していたのです。
(奈良の大仏づくりのために働いた国民は、260万人ほど)
2.有名な仏師と代表作
止利仏師(飛鳥時代)
日本で最初の仏師として知られ、鞍作鳥ともよばれます。
中国や朝鮮半島の仏像の影響を受けた、面ながで神秘的な表情と流れるような衣の表現が特徴。
この作風は「止利様式」とよばれ、飛鳥時代(592~710年)の仏像づくりに大きな影響を与えました。
代表作
- 法隆寺の釈迦三尊像
- 飛鳥寺の釈迦如来坐像[飛鳥大仏]
国中連公麻呂(奈良時代)
有名な「奈良の大仏」の制作リーダーであり、すぐれた技術によって大仏づくりを成しとげます。
大仏のほかにも、奈良を代表する多くの仏像の制作に関わったといわれています。
代表作
- 東大寺の盧舎那仏坐像[奈良の大仏]
- 東大寺・戒壇堂の四天王立像
将軍万福(奈良時代)
詳しいプロフィールは不明ですが、興福寺の有名な八部衆立像や十大弟子立像をつくったといわれています。
代表作
- 興福寺の八部衆立像
- 興福寺の十大弟子立像
定朝(平安時代)
平安時代(794~1185年)を代表する仏師。
貴族の好みに合わせた、上品で美しい独自の作風(定朝様)を生み出します。
定朝様は大きなブームとなり、多くの弟子たちを世に送り出しました。
代表作
平等院の阿弥陀如来坐像
運慶(鎌倉時代)
一流の仏師グループ「慶派」のリーダー的存在であり、日本を代表する天才仏師。
ダイナミックで人間味にあふれたその作風は「鎌倉新様式」とよばれ、仏像史に残る数々の名作を生み出しました。
なかでも、快慶と一緒につくった東大寺・南大門の金剛力士立像が有名。
代表作
- 東大寺・南大門の金剛力士立像
- 円成寺の大日如来坐像
- 興福寺の無著・世親立像
快慶(鎌倉時代)
慶派のメンバーであり、運慶とならぶ天才仏師。
運慶と一緒にダイナミックな仏像をつくる一方で、繊細ですっきりとした独自の作風(安阿弥様)を生み出しました。
代表作
- 東大寺・南大門の金剛力士立像
- 安倍文殊院の文殊菩薩騎獅像
- 浄土寺の阿弥陀三尊像
円空(江戸時代)
江戸時代(1603~1868年)前期のお坊さん。
庶民が気軽に仏像を拝めるようにと、日本各地を歩いてまわりながら仏像を制作。
(木の形を生かしつつ)大胆にデフォルメされた素朴な作風は「円空仏」とよばれ、12万体ほどもの作品を残しました。
代表作
神明神社の善財童子立像
木喰(江戸時代)
江戸時代(1603~1868年)後期のお坊さんであり、円空と同じく日本各地を歩いてまわりながら仏像を制作。
大胆にデフォルメされた作風が円空と似ていますが、(ゴツゴツとした円空仏に対して)木喰の仏像はふっくらと丸みを帯び、ほほ笑みを浮かべています。
この優しさあふれる作風は「微笑仏」とよばれ、庶民に広く親しまれてきました。
代表作
清源寺の十六羅漢像
西村公朝(現代)
昭和から平成にわたって活躍した仏師。
“癒やしの寺”として親しまれている「愛宕念仏寺」の元住職でもあります。
千数百体以上もの仏像の修理に取り組んだり、「ふれ愛観音」とよばれるユニークな作品を数多く残したりします。
博物館館長・大学教授・仏像解説者なども務め、幅広く活躍しました。
代表作
- 愛宕念仏寺の千二百羅漢像(市民とともに制作)
- 清水寺の「ふれ愛観音」
- 能福寺の毘盧遮那仏坐像[兵庫大仏]
解説は、以上です。
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